魔王の後継者 1章(2)

 涼が注目していた少女──つまり、魔王の臣下最前列に並ぶ者の内、一人だけ立っている少女の背後から、囁き声がした。

 「ユリア様……あの者、どこまで本気なのでしょう?」

 片膝を突いた自分の臣下から問われ、ユリアと呼ばれた少女は答えた。

 「おそらく、完全に本気でしょうね」

 忠実な臣下であるイリスが呻く声が聞こえたが、ユリアは前を向いたまま小首を傾げる。

 その赤い瞳は、真っ直ぐに涼を見ていた。

 「その返事にも驚くけれど、ユリアが一番意外だったのは、あのリョウという少年、あれだけグレイオスのそばに立っているのに、まるで彼を意識している様子がない……彫像の隣に立っているみたいにね。これは、驚くべきことだわ」

 ここでは、魔王を呼び捨てにする自分も意外極まりないのだが、ユリアはそのことには触れず、ただひたすら感心していた。

 「魔王にふさわしいかどうかはおいて、グレイオスの実力は決して侮れない。真っ当な戦士なら、そばにいるだけで震え上がるはずよ」

 「もしかすると、あのお方の力を感じ取れないのではないでしょうか」

 もう一人の側近、イリスの兄であるエルンストが恐る恐る尋ねたが、ユリアは明確に首を振った。

 「いいえ。ユリアがあの少年から力の波動を感じるのだから、弱者ではあり得ない」

 背後で二人の側近がそっと顔を見合わせていたが、ユリアはそれ以上は付け加えず、ひたすら涼を見つめていた。

 まさか、魔族世界の重鎮にあたる少女が、自分にそんな評価をしているなどとは、涼は全く知らずにいる。

 しかし、一人だけ片膝を突かないあの少女が、立ったままこちらをじっと見つめていることは、否応なくわかる。

 今の発言は何かまずかったのだろうかと少し思ったものの、今更訂正しようとは思わなかった。来る前から主張していたことだし、今だってグレイオス自身は、特に涼の言い分に腹を立てた様子もないのだ。

 しかし、グレイオスが沈黙する間にもざわめきは消えず、とうとう最前線に並ぶ者達のうち、一人が声を張り上げた。

 「陛下、発言をお許しくださいますか?」

 涼が見ると、最前列の隅の方で片膝を突くそいつは、派手な真紅のスーツを纏った男で、地味な黒系の格好が多い男達の中にあって、やたらと目立っていた。

 「あいつは、ゲザリングという。魔族達の将軍格である、セブンウォールの一人だ」

 グレイオスがわざわざ涼の方に顔を寄せ、小声で教えてくれた。

 「そんなに強いのか?」

 涼も小声で訊き返した。

 「まあ……本人のやる気はあるが、今のセブンウォール達とでは、少し実力が隔絶していてな。戦でセブンウォールが一人欠けたため、臨時にその座につけてみたのだ。……とはいえ、並の魔族から見れば、強者であることは確かだぞ」

 褒めているのか貶しているのか、今一つわからない言い方だった。

 「ゲザリング、立て! 発言を許すっ」

 またしても割れ鐘のごとき声でグレイオスが命じ、ゲザリングとやらが笑みと共に立ち上がった。

 「ありがとうございます、陛下。皆も知りたいことと思いますが、まず私がお尋ねしたいのは、魔王として存分に力を振るわれている陛下が、何故に後継者をお求めか……という点です」

 「なるほど……神器のトゥルーミラーを使ってまで後継者探しをした理由か」

 グレイオスは角張った顎を撫で、目を細めた。

 「答えは簡単だ。今は人間達が不埒にも我らに戦いを挑んでいる。そこで、後継者を決めておき、後顧の憂いなく、万全の体制で予が戦うためよ」

 涼が聞いた「寿命が迫っている」的な話は、一切しなかった。

 自分で明言した通り、臣下達にも伏せているらしい。

 「その貴きお覚悟……感服致しました」

 ゲザリングとやらは、気取った調子で深々と一礼した。

 「ならば、今一つだけ質問をお許しを。陛下は先程、その少年を『彼を予の後継者として認め、敬意を払うよう命じる』とお命じでありました。もちろん、我ら臣下に否やはございません」

 ここでゲザリングは、また一礼した。

 ただし、次に顔を上げた時には──涼が思うに、少し小狡い表情を浮かべていた。

 「とは申しましても、なにぶん初対面であり、魔族から見れば異種族の少年でもあります。故に、今後のためにも、一度その少年と手合わせさせていただきたく思います」

 「しばし待て」

 グレイオスは大仰にそう言い置くと、涼の方を見てニヤッと笑い、囁きかけた。

 「あやつの狙いはわかるだろうな?」

 「……あんた、俺のことを脳天気な馬鹿だと思っているのか?」

 涼は唸るように返す。

 腕組みしてゲザリングとやらを見据え、グレイオスにしか聞こえない声で、すらすらと答えてやった。

 「ゴタゴタ言ってたが、本心は『気に食わんから、この俺が殺してやる』ってことじゃないか」

 「ふむ。それがわかっていても、おまえには怯懦の気配すらないな。どうだ、試合方法を剣技に限定するから、やってみないか?」

 涼は、この広間に入ってから初めて、グレイオスを真っ直ぐに見た。

 愉快そうな黄金の瞳に、肩をすくめて言ってやる。

 「自分でも大馬鹿だと思うが、望みとあらばやってやろう。……逃げるのは嫌いだしな」

 「よしっ」

 またしても力の入りすぎた勢いで涼の肩を叩き、グレイオスはゲザリングに宣告した。

 「その挑戦、予が許す。ただし、ここは本来は謁見の間故に、試合方法は剣のみとせよ。それと予が声をかけたら、その時点で斬り合いを止めることも忘れるな……以上、双方への命令だ!」

 「ははあっ」

 「わかった」

 ゲザリングはまたしても大げさに一礼し、涼は自然体で答える。

 涼が玉座の壇上を下りようとすると、グレイオスは「少し待て」と押し留め、今度は全員に声をかけた。

 「皆の者、よき見世物だぞ! おまえ達も立って見物するがよいっ」

 ……闘犬場に群がる観客じゃあるまいしと思ったものの、涼は特に抗議はしない。

 それに、跪いた姿勢で見物された方が、よほど居心地が悪いというものだ。ただ、その後でグレイオスがとんでもないことを言い出したのには、さすがの涼も多少驚いた。

 「ちょうどよい、せっかくだから景品をつけようではないか。この試合の勝者に、憎き敵を処刑する権利をやろう」

 さらりと述べると、グレイオスは衛兵らしき男達に片手を上げてみせる。

 すると、そのうちの一人が隅へ走り、壁際の小さなレバーを操作した。途端に、何か歯車が噛むような音が連続し、床の一部が二つに割れた。

 謁見の間全体がどよめく中、鉄格子の檻が石床ごと迫り上がってくる。

 閉じ込められていたのは純白のドレスを着た少女であり、青白い顔で檻の隅に座っていた。

 小さな唇を引き結んでいて、周囲の野次や罵倒には、目もくれずにいる。

 ツインテールにまとめた金髪と、大きな碧眼という見た目の華やかさとは裏腹に、性根は据わっているらしい。

 「……なんだ、あの子」

 金髪碧眼の豪勢な……しかしまだ幼い少女を見て、涼は眉をひそめる。

 対してグレイオスは、忌々しそうに教えてくれた。

 「ここ一年ほど、魔族と人間が戦争中なのは、話したか?」

 「驚くべきことに、初耳だ」

 涼が喉の奥から声を出すと、魔王はしれっと続けた。

 「では、いま聞いたわけだ。我が領土の近くに位置するヴァレンシア王国という国が、不埒にも去年、攻めてきおってな。以来、戦争状態よ。あの女は、そこの王女だ」

 グレイオスは檻の方へ顎をしゃくる。

 「先日、魔族の斥候が前線の慰問にきていたあの女を見つけ、夜を待って奇襲をかけ、捕らえたのだ」

 「まず確認するが、最初に攻めてきたのは向こうなのだな?」

 「ここ百年くらい、攻めたり攻められたりだが、今回は間違いなく人間共の方よ」

 「で、あの子は処刑するのか?」

 檻に入れられた少女を囲んで野次を飛ばす一同を眺め、涼は念のために尋ねたが「もちろんだ!」と力強く言われてしまった。

 「なるべくむごく、バラバラにするつもりよ」

 「死んだ人間ほど役に立たないものはない。どうせ殺す命なら、あの少女、俺にくれないか?」

 何気なく提案すると、グレイオスはじろっと涼を見た。

 「女を犯すなら、もっと年長の美姫がよかろう? それともそういう趣味か?」

 「どういう趣味だよっ」

 さすがにむっとして言い返したが、ここで喧嘩をするのはまずい。

 気を取り直し、涼はなおも説得を試みた。

 「俺を後継に指名したんだろ? ならば、捕虜を政治的に利用することも考えるべきだ」

 涼は初めて、まともに檻の方へ目をやる。

 声が聞こえるはずもないが、なんとなく自分のことを話していると感じるのか、少女の方もじっとこちらを見つめていた。

 「殺せばそこで終わりだが、利用するとなれば、多くの可能性がある」

 「ふむ?」

 グレイオスはしばらく考えたが、やがて探るように黄金色の目で見てきた。

 「人間には、性根の甘いヤツが多い。おまえもそのクチではなかろうな? 実はあの女を助けるのが目的ではあるまいか?」

 「見知らぬ他人のために命をかけるほど、俺は人間ができていない」

 落ち着いた表情を保ち、涼は即答した。

 「まだ勝敗もついていないうちに、ここで敵の王族を処刑することに、さしたる意味があるとは思えないのさ」

 互いの視線がしばしぶつかったが、涼は目を逸らさなかった。

 やがて、グレイオスは根負けしたかのように口元を綻ばせた。

 「おまえはなかなか、他人を説得するのが上手い。後継者の意見でもあるし、あえて乗ってやろう。……ただし、条件があるぞ」

 グレイオスはにんまりとほくそ笑み、いきなり胴間声を張り上げた。

 「皆の者っ、予はいささか気が変わった。本当の意味で景品とするため、この試合で勝利した方に女をくれてやるっ。後は煮るなり焼くなり、勝者が好きにすればよい!」

 また場内がどっとざわめき、大声で笑い、「さすがは魔王陛下っ」と讃える者が大勢いた。

 よい趣向だと思っているのか、あるいは追従かだ。

 「意見を聞いてくれて、礼を言う」

 それでも涼が礼を述べると、魔王は口元を歪めて手を振る。

 「なに、おまえを特別な地位に据えると言ったのは予だからな。……ただし、この試合に勝たねば意味はないぞ? わかっているだろうが」

 「……追試はないだろうと思ってたさ」

 頷いた後、涼は刀を引っさげて玉座が置かれた壇上から下りていく。

 背後から、グレイオスの笑みを含んだ声が聞こえた。

 「ゲザリングは年齢を問わず、人間の女は散々弄び、犯し抜いてから殺す趣味がある。せいぜい、頑張ることだ」

 これに対して、涼は返事もしなかった。

 壇上を下りる途中、なんとなく視線を感じて檻の方を見ると、話題の王女が涼の方を懸命に眺めていた。顔には血の気がなかったが、それでも怯えている様子はない。

 そこに感心して、涼は軽い気持ちで手を振ってやった。……あいにく、向こうは驚いたように碧眼を見開いただけで、特に反応はなかったが。

 玉座が置かれた壇上から下りてくる涼を見て、もちろん、周囲はざわめいている。

 ほとんど熱狂に等しいざわめきであり、場内のほぼ全員が、これから起こる試合に期待しているのは間違いない。

 魔王の……というよりも魔族の重鎮たるセブンウォールの一人であるユリアもまた、片隅から涼をじっと見つめていた。

 彼女の臣下であるイリスとエルンストが、口々に「あの人間の少年、自殺でもする気でしょうか?」とか「魔王陛下のご命令、解せません。いかに、相手があの成り上がりのゲザリングとはいえ」などと口々に疑問を呈していたが、ユリアは微笑して小首を傾げた。

 「まだ、あの子が負けると決まったわけではないわ。ご覧なさい……少なくとも、壇上を下りてくるあの子から、恐怖は感じられない。あの子は、ゲザリングを全く恐れていない」

 もっとも、と最後にユリアは付け加える。

 「恐怖を感じなくても、倒される時は倒されるものだけど……ただし、ユリアが見る限りでは、ゲザリングが楽に勝てるとは思えない」

 これを聞いて側近二人は理解に苦しむような顔をしたが、ユリアはそれ以上説明しない。

 人間を格下に見る癖がついている魔族としては、この二人の見方の方が当たり前なのだ。

 「人間は嫌いですが」

 わざわざ断りを入れた上で、イリスが言う。

 「ゲザリングはさらに大嫌いですわ。できれば、あの少年に勝たせたいほどです」

 「おまえを見るあいつの目つきは、だいぶ肉欲に塗れているからなあ」

 兄のエルンストがからかうように口にすると、イリスは微かに頬を膨らませた。

 「言わないでください、兄上……思い出して寒気がするではありませんかっ」

 「はははっ」

 エルンストが楽しそうに破顔し、釣られてユリアも少し微笑した。

 からかってはいるが、もちろんゲザリングが妹のイリスに本当に手を出しでもしようものなら、タダでは済まないだろう……いかに臨時でセブンウォールの地位にあろうと、エルンストが即座に襲いかかるに違いない。

 「……あいつがセブンウォールの地位だなんて、魔族のレベルも随分と低下したものね」

 そのセリフはユリアの独白に過ぎなかったが、聞いていた兄妹は心から頷いていた。

 無論、セブンウォールトップとも言うべきユリアから見れば、それは当然の感想だろう。

 壇上から魔族達のただ中へ涼が下りると、動物園の檻でも覗く気分なのか、周囲から魔族達が一斉に近付いてきた。

 後継者だと魔王から言明されているせいか、さすがに手を出してくる者はいないが、無論、尊敬の眼差しを向ける者も皆無である。

 おそらく多くは、「こいつが血反吐に塗れて死ぬところを見たい!」というのが本音ではあるまいか。

 涼が自嘲気味にそう思っていると、また別種の視線を感じ、何気なくそちらを見る。

 全員が跪いていた時、一人だけ立っていた例の銀髪の少女が、涼を熱心に見つめていた。視線はとことん冷ややかだったが、少なくとも他の連中のように軽侮の表情ではない。

 ただし、なんとなく涼が頷いてやると、向こうは眉をひそめていたが。

 そうこうするうちに、頭上から蛮声が轟いた。

 「皆の者、場所を広く空けよっ」

 『ははあっ』

 一斉に声が上がり、ざざっと魔族達が涼から離れていく。

 代わりに、派手な真紅のスーツを纏っていたゲザリングが、ニヤニヤ笑いながら近付いてきた。今は上着を脱いでいるので、白いシャツと赤いズボンのツートンカラーになっている。

 手には刃の部分がうっすらと輝く、奇妙な長剣を引っさげていた。

 魔剣というヤツかもしれない。

 「セブンウォールの地位にある俺に殺されるとは、人間としては贅沢な死に方だぞ!」

 涼は相手に負けないくらい──いや、むしろ相手の嘲笑を吹き飛ばすようなふてぶてしい笑みと共に言い返す。

 「口だけは達者だが、あんたはそのセブンウォールとやらの中じゃ、成り立てほやほやだと聞いたけど?」

 途端にゲザリングの顔が強張ったが、涼は全く気にせず続けた。

 「忠告だが、大言壮語した後で、もしぶっ倒されたら、最悪だと思うぞ?」

 相手に合わせて言い返しただけなのに、向こうは素晴らしく腹を立てたらしい。

 たちまち浮かべていた薄笑いを消し、浅黒い顔を歪ませる。ぎりっと奥歯を噛みしめる音までしたほどだ。

 「……剣技のみに限ると言われなければ、この場で攻撃魔法を叩き込んでやったものを」

 「俺に言われてもな」

 両手を広げた涼を見て、周囲のざわめきが少し静まった。

 どうも、野次馬連中から呆れられたらしい。

 「はははっ。相変わらず面白いヤツだ。予も間近で見たくなった」

 興味が湧いたらしく、魔王グレイオスまで玉座を立ち、下りてきた。

 今の会話が聞こえていたようだ。

 「合図は予が出してやろう。……くれぐれも言っておくが、声をかけた時点で終わりだ。特に、ゲザリング、よいな!」

 「わかっております」

 ゲザリングはまた一礼したが、最初に比べれば優雅さに綻びが生じていた。

 おそらく、涼の言い草に腸が煮えたぎっているのだろう。

 (戦いってのは、冷静さを失った方が負けじゃないのか?)

 涼はそう思い、自分自身を省みる……怯えはないし、頭の中は澄み渡った湖水のように冷静だ。今この瞬間からでも、全力で動けるだろう。

 まあ、合格のようだ……この危機にあってなぜこれほど落ち着いていられるのか、自分でも説明し難いが。

 鞘を払って刀を抜き、邪魔な鞘は腰のベルトに差す。

 ……しかし、まさか学校のブレザー姿で、魔族戦士とやり合うとは思わなかった。

 昨日までの時点では有り得なかったことだが、これも一興かもしれない。

 「準備できたなら、始めるが?」

 既に魔剣を手にしているゲザリングと涼を見比べ、グレイオスが静かに問う。

 「俺はいつでもいい」

 「大丈夫です、陛下っ」

 涼とゲザリングの声が重なり、グレイオスは一つ頷いてから声を張り上げた。

 「いいだろう、始めっ!」

 その刹那、明らかにゲザリングは嘲笑を浮かべ、疾風のごとく踏み込んできた。

 どれほど軽薄に見えようと、やはり魔族の精鋭であることは疑いようもなく、その速度は明らかに人間のレベルを超えていたように思う。

 ただ、それでも涼は敵の初手をかわした、かわしきった。

 暴風に等しいような風切り音がしたが、最小限の動きで身を捌き、大振りの魔剣を避けたのだ。肩を少し掠ったものの、二つ割にされるよりは遥かにマシだろう。

 「後継者たる者が、逃げるのかっ」

 「安心しろ、どうせ最後は俺が勝つ」

 即答で涼が言い返すと、ゲザリングの顔が真っ赤になった。密かに予想した通り、挑発には極めて敏感らしい。

 「減らず口をっ」

 怒声と踏み込みと剣撃が、全く同時に来た。

 相変わらず涼をナメているのか、その剣撃は過剰なほど大振りだったが、それでも剣が霞むほどのスピードがあった。

 基礎体力やパワーが、人間とは比べものにならないようだ。

 これも紙一重に等しいぎりぎりで避けたものの、目で追っていたゲザリングは、すぐさま避けた方向へ向き直った。

 「ちょこまかと逃げおって!」

 再び、一気に間合いを詰めようとする。

 (そろそろ仕掛けるかっ)

 決断した涼は、わざと自分も大きく刀を振り上げ、勢いよく剣撃を繰り出そうとした。

 読み通り、ゲザリングが嘲笑と共に喚いた。

 「遅いぞ、人間っ」

 同時に、斜め下方から鮮やかな銀の閃光が涼の首筋を襲う。

 涼は振り下ろそうとしていた刀でその剣撃を受け止めたものの、力負けして刀を弾き飛ばされた──ように見えた。

 実際に、涼の刀が宙を舞ったのだから、見物人の誰もが「あ、こいつは次に頭割られて死ぬな」と思ったことだろう。

 「よしっ」

 ゲザリングが残酷な笑みを見せたが、身軽になった涼はいきなり猛然と間合いに飛び込む。

 「なんだぁ!?」

 てっきり逃げるかと思って畳みかける気配を見せていたゲザリングに、一瞬の弛緩が生じた。涼の刀を弾き飛ばし、「もはや無力化した!」と確信していたので、なおさらのことだ。

 その隙を涼は待っていた。

 流れるような動きで相手の襟元を掴み、同時に踵を返して自らの体勢を入れ替え、いわゆる背負い投げの体勢に入っている。ゲザリングが気付いた時には、軽々と投げられ、石床に叩きつけられていた。

 さらにすばやく涼が右足でゲザリングの胸を踏ん付け、固定してしまう。

 「ぐぬっ」

 受け身など知らぬゲザリングは、後頭部をモロにぶつけて呻いたが、もちろんその程度で怪我などしない。

 そこで彼は見る。

 涼が、そちらを見もせずに真っ直ぐ右手を上げ──まさにそこへ、タイミングを計ったように刀が落下してきたのを。

 飛ばされていた刀は落下途中で、不安定にくるくる回転していたのに、涼は嘘のように綺麗に柄の部分を握り、受け止めていた。

 しかもその間、視線は最初から最後までゲザリングに固定したままである。

 自分が下から刀身を叩き上げたのだから、弾き飛ばされた刀が天井の方へ飛んだのまでは、ゲザリングも覚えている。

 とはいえ、全てを計算ずくで涼が動くなどとは、予想もしていなかった。

 (いやっ、あり得ない! たかが人間に、そこまで先読みなど不可能だっ。こんなの偶然に決まっているっ)

 「こしゃくなっ」

 怒りに任せて跳ね起きようとした時には、既に遅かった。

 自分の手に戻った刀を素早くゲザリングの喉元に突きつけ、涼は静かに宣告した。

 「おまえの負けだ」

 「それまでっ」

 これも、タイミングを合わせたかのように、魔王グレイオスの制止の声と同時だった。