ガラクタ王子と覇竜の玉座(7)

第三章 持たざる者の戦い方

 イルセラント市に到着した後、一同は今後の方針について話し合った。

 無事に目的地に到着したところでさっそく竜の骨、あるいは剣の調査に取り掛からなければならない。だがマクシムに問うたところで素直に答えるわけがなく、領内に住まう貴族も似たようなものだろう。

 ではどこから手をつけるべきかとクラウが考え込んでいると、

 「せっかく遠い他領まで来たってのに、部屋に閉じこもっていてもつまらんでしょう」

 そう言い出したのはヤーヒムと小隊の若者たちだった。

 来訪の名目はイルセラント領の査察と見学ということになっているので、フェイトン砦に借りた部屋から動かなければ、確かにそれはそれで怪しまれる。

 「お前たち、ただ街に出て遊びたいだけだろう……」

 「任務もちゃんとやりますから、土産物くらい買わせてくださいよ!」

 生真面目なティラナは額に青筋を浮かべていたが、リアは部下たちが語る「楽しそうな街の様子」に目を輝かせている。

 「……まあ、まずは歩き回ってみるか」

 「さっすが殿下、話がわかりますねえ!」

 現状、手がかりがあるわけでもないので、クラウは彼らの提案にため息交じりに頷いた。

 そして翌日。

 「やー、こっちのが空が高い感じがしますね!」

 「そうか? どっちも青く見えるぞ」

 砦の塔から城壁に出たところで、数名が早くもはしゃいで間抜けな会話をしている。

 数メルトルの城壁の上からは市街地が一望できた。

 今クラウたちがいる城壁は街の内外を隔てるイルセラント市の防衛線であるが、市内にも崩れかけた壁、あるいはその跡らしきものがちらほら見える。街が何度も拡張を繰り返して成長してきた証だ。

 その二重、三重の壁の中心に、領主の座する公城が聳えている。

 公城の周囲には広い敷地の邸宅が並んでいるのが見て取れる。ガラティア市もそうだが、城を取り巻く第一円は貴種や豪商といった名士たち、それから第二円、第三円……と遠のくにつれて社会的階層が落ちていき、いちばん下が壁外の村に暮らす人々というわけだ。

 「ガラティアとかなり違うな……」

 領を超えて人が移動することが少ないため、それぞれの領地は独自の発展を遂げている。

 ガラティア市育ちのクラウには、路の左右に並ぶ住居の型や遠目に見える衣服の色合わせまで見慣れぬものばかりだ。砦の兵たちの言葉も訛りがきつく聞こえるが、幸い聞き取れないというほどではない。

 遠目に街並みを眺めながら、クラウの口からふと感傷的な呟きが漏れた。

 「俺の居場所はどこなのかなあ……」

 中央の城に居場所はなく、今は縁の砦にどうにか身を置いているがそれもどうなるやら。

 思わず物思いにふけったクラウだったが、すぐに現実に引き戻された。

 「我が王よ。あそこに見えるのは何だ?」

 右腕に抱きついて、同じく目を丸くしながら市内を見下ろしていたリアである。

 なお「我が王」という呼びかけを止めさせようと昨日クラウはだいぶ努力したのだが、とうとう「知らない人間がいるところでは言わない」で妥協せざるを得なかった。ティラナが説教要員に加わってくれれば良かったのだが、彼女もこの点に限ってはリアに同調しており、何か言いたげな目でじっとクラウを見つめてきたくらいだった。

 ともあれリアが白い指で示したのは市の中心部、公城にほど近い地点である。

 石畳が敷き詰められた広場があり、その中心に何かが建っているのが見えた。

 遠目には山から切り出してきた岩をそのまま突き刺してあるかのようだった。だが、その岩が公城と変わらぬくらいの高さがあるのだから尋常ではない。

 岩肌は独特な灰白色をしている。

 それが何に近いかと問われれば動物の骨──あるいはヤーヒムの竜具の短剣だ。

 「ああ、あれがイルセラント領の〝竜基〟なんだな」

 「……竜基?」

 「領主が、領地を浄化するのに使う竜具だ」

 竜基とは神の呪いで汚染された土地を浄化して腐れ神の発生を防ぎ、人間が住めるようにする竜具だ。あの竜基の効果範囲がすなわち〝イルセラント領〟である。武器や橋など竜具の種類は多いが、その中でも最大級と言えるだろう。

 竜基は己が領土の出来事をすべて把握し、操ることができるのだという。

 領主は竜基に魔力を注ぎ込んで機能を維持しつつ、腐れ神に襲撃された地区を優先的に浄化したり、また領内に侵入した腐れ神の位置を察知したりと、領民を護り導くのである。

 「あの竜基とやらは王……いや領主か? が受け継ぐものなのか」

 「むしろ逆だな。竜基を受け継いだ者が領主と言った方が正しい」

 たとえば領主を殺して己こそが新しい領主だと主張したところで、竜基を扱えなければただの叛逆者で終わってしまう。この時代、いわば竜基という大樹に寄りかかるしか人間が生き延びる道はなく、竜基を維持できない領主に存在意義はないからだ。

 そしてその領主の上に立つ者として、王都ガラティアに座する〝王〟がいる。

 「イルセラント……ふむ……ん?」

 リアは何やら考え込んだ様子で遠くの竜基を睨むように見つめていたが、不意に後ろに控えていたティラナを振り返った。

 「ティラナ、セラとはいったい何だ?」

 不思議そうに尋ねる。

 だがティラナは不機嫌そうに眉をひそめた。

 「いったい何のことです」

 「へ?……いや、今そなたが言っておったではないか」

 「私は何も申し上げておりません。気のせいではないですか」

 クラウたち男性陣はそのやりとりをはらはらしながら見つめている。どうということのない会話だと思うのだが、やけに緊迫感があるのはクラウの気のせいではないだろう。

 リアは何度か目を瞬かせた後、気を取り直したように小さく頭を下げる。

 「悪かった。妾のただの空耳だったようだ、気にしないでくれ」

 「いいえ」

 リアがふたたび市街地に目を向け、そして男性陣はほっと胸を撫で下ろしたのだった。

 自分の腕にぎゅっとしがみついているリアに、クラウはおそるおそる尋ねてみる。

 「リア。竜基を見て何か昔のこと思い出したりとか……」

 言いかけたところでクラウは「失敗した」と顔を引きつらせた。

 竜具は竜の骨を加工して作る。それは短剣でも大岩のような竜基でも同様だ。

 人間は竜具と気楽に呼んでいるけれども、リアにとっては同胞の遺骸に他ならない。もしかしたらリアの親族や両親の骨もどこかで竜具となっているかもしれないのだ。

 彼女の考えがそこまで至ったかは定かではないが、

 「いや。さっぱり分からん」

 そう言いつつも、リアはこちらを見上げてまたもや胸を押し付けてくる。ほっとするべきなのか、役得なのか、慌てて引っ剝がせばいいのか少し迷った。

 そしてクラウたちは城壁から市街地へと降り立つ。

 「さて、ここからは分かれて調査をしよう」

 十数人でぞろぞろ歩くと悪目立ちするので三組に分かれることにする。

 クラウ班はリア(説得するだけ無駄)、ティラナ(護衛)、ヤーヒム(頼みの綱)である。貴種ばかり固まってしまったが、市街地では腐れ神の襲撃よりも暗殺の危険性が高いので致し方あるまい。

 「ティラナ、誰か尾けて来てるか?」

 「いいえ、今のところその気配はないようです」

 言いながら、ティラナは手のひらほどの大きさの鏡をスカートの裏にしまっていた。

 鏡は良家の娘であれば誰でも持っているような品だが、彼女のような目端の利く……索敵の訓練を受けた者であれば色々と使い道があるものだ。

 「そうか。……ロード・イルセラントは監視してくると思ったんだけどな」

 女官という職務上、また祖父に鍛えられたおかげでティラナは不審者の気配に敏い。マクシムの思惑は分からないが、現時点では市内を自由に歩き回っても問題ないだろう。

 「しかし市内のことはさっぱりだからな、どこをどう歩いたもんだか……」

 「道案内がいないんじゃ困りますからね、確保してきました。あいつらにも渡してあります」

 頭を掻くクラウに、ヤーヒムが横からさっと一枚の紙を差し出してきた。

 覗き込んでみると市街地の地図である。それも急ぎ必要なところだけ書き写した風だ。

 「見取り図がないと調査も何もあったもんじゃないですからね。昨日、殿下が城で領主様に愛想笑いしてる間に、砦の連中に頼んでこっそり見せてもらいました」

 図によればイルセラント市は公城を中心として東西南北に大通りが延びているようだ。同心円と十字を組み合わせたような構造なので部外者にも位置関係を把握しやすい。

 街や領地の地図というのは軍事機密に属するもので、伝手がなければ手に入れられない。昨日の戦闘でフェイトン砦の兵と面識ができたとはいえ、ヤーヒムの仕事の早さにクラウとティラナは目を丸くした。

 「さすがだ、ヤーヒム。助かる!」

 「はっは、殿下、俺はできる男ですぜ。ところでその有能な部下の給金は倍になりませんかね」

 感動するクラウに、ヤーヒムはその巨体を踏ん反り返らせて笑っている。

 「妾よりも褒め言葉が多い気がするのだが、気のせいだろうか」

 「そこに気づくとはなかなかですね。ですが考えても虚しいだけだと忠告しておきます」

 リアとティラナが何やらぶつぶつ言っているが、クラウの耳には入らなかった。

 市街の地図にちらちらと目を落としながら四人はイルセラント市を歩いていく。

 現在地は市内の第二円と第三円を繋ぐ、市内でもっとも賑わう大通りである。

 今日は市場が立つ日ではないはずだが、それでも道路の左右には屋台がずらりと並び、それを冷やかす人々でごった返していた。

 屋台と人々の群れの向こうにイルセラントの竜基が見えた。

 文字どおり領地の礎とも言える竜基の足元で、人々はたくましく日々を送っている。

 「こら、勝手に行くな、はぐれたら大変だから」

 「……むう」

 いつもクラウの腕にくっついているリアが屋台にふらふらと引き寄せられている。慌てて彼女の肩を掴んで引き戻すが、偶然すれ違った男の目がなんだか怖かった。

 今はクラウは警備隊の制服ではなく質素な平民の服を着ている。むろん護身用の武器は帯びているが目立たぬようにしてあるので、この街の住民には「どこかの村から出て来たらしい見慣れない顔」とでも見えるだろう。

 それでも周囲からちらほらと視線を感じるのは、おそらくリアのせいだ。

 イルセラント領は大陸の北方に位置するせいかガラティア市よりも気温が低い。すれ違う人々は鮮やかな刺繍を施した上着も何枚も重ねているから、この地方ではどうやらそれが標準のようだ。

 昨夜に土下座も辞さぬ勢いで説得した結果、どうにか上着だけは羽織らせることに成功したのだが、リアの白い太腿は今日もほとんど剥き出しだから、悪目立ちして当然であった。

 「俺、女の子にあんな格好をさせる変態だと思われてるんじゃないかな……」

 「おや。俺はてっきり殿下の趣味だと……」

 「違う!!」

 にやにや笑うヤーヒムをクラウは恨めしげに見上げ、

 「ご安心を、クラウ様。真っ先に変態だと市民に疑われるのはどう考えてもあの者自身です」

 「妾が変態だと!?」

 それからティラナに食ってかかるリアを宥めるだけで五分以上かかった。

 言うまでもなく、どうでもいい会話をしながらも一行は大通りをゆっくり歩いている。

 「……匂いが違うな」

 人混みを避けながら、クラウはふと呟いた。

 さきほど城壁から市街を見下ろしたときには分からなかったことだ。

 居並ぶ屋台にはラベンダーなどの香り高い花や香料を売る店があり、そしてあちこちから香辛料と料理の匂いが漂ってくる。

 「これは、食べ物の匂いなのか?」

 「ああ。あそこに干してあるのは芥子かな? 葉も種をすり潰しても食べられる。王都じゃあまり食べないけどこのあたりは寒いから辛い味が好まれる……だったかな」

 出発前に慌てて読んだ概説書の内容を思い出しながら説明する。

 「食べ物。そうか、これは食べ物なのか」

 リアは興味深そうに何度も口の中で繰り返していた。

 そういえば「竜は何を食べるのか、好物なのか」を語る神話というのは聞いたことがない。移動中はリアは警備小隊と同じ食事をしていたし、それで文句も言わなかったから、てっきり人間と似たり寄ったりなのかと思っていたのだが。

 「おお……」

 ならばリアが屋台の食べ物に興味を示すのもきっと悪いことではないのだろう。

 彼女のそんな反応は喜ばしいのだが、クラウは早くも疲労困憊で背が曲がりつつある。

 「殿下、もう疲れてませんか?」

 「まあ、少し……」

 王城の華やかな部分に縁がなかったというだけで、基本的にクラウは箱入り育ちだ。

 幼い頃は妹とともに城の離宮で暮らしていたし、その後は砦に放り込まれて戦ってばかりだったから、市街に遊びに出かける機会など滅多になかった。ティラナもれっきとした貴族の令嬢だから似たようなものだ。

 「ここには城のうるさい連中もいないんですから、殿下もちっとは楽しんだらそうです。ほら、あそこの売り娘なんか可愛いですよ、ちょっと声をかけて……ってて!」

 ドレスの裾が翻る一瞬の隙に、ティラナが靴の踵でヤーヒムの足を踏んづける。傍目には優雅に歩いているようにしか見えない王城仕込みの早業であった。

 「ってて……お嬢様よ、そこのリア嬢ちゃんを見ろ。まったく動じていないじゃねえか」

 「ふむ、我が王が他の女に目移りするという話か? そんなことはあり得ん」

 ヤーヒムに水を向けられたリアはふんっと胸を張った。

 「妾こそが未来の妃と予言に出ておる。それに、あの娘より妾のほうがずっと可愛い!」

 きっぱりはっきり宣言するリアに、人間三名は顔を見合わせてぼそぼそと囁き合った。

 「あれを真似するのは私には無理です」

 「いやあ……あの自信満々っぷり、殿下もちょっと見習ってみたらどうです?」

 「俺も無理かな……」

 遠い目をしてから、クラウは屋台の並びに目を移してくしゃくしゃと頭を搔く。

 「しかし、街に来てみたはいいけど、竜やら剣やらの話を知らないかと聞いたところでなあ。どうしたものか」

 呟いたところで、ヤーヒムがにやっと笑ったようだった。

 「平民の耳を舐めちゃいけませんぜ、殿下」

 まるきり庶民のような物言いであるが、彼は貴種ではあっても平民街の労働者と一緒に育ったと聞いている。そのためか異邦の街はクラウと同じく初めてのはずだが、屋台に並んだ果物を眺めて女将に声をかけたりと実に楽しそうだ。

 「王や領主は誰でも、民の噂を気にしているのは分かるけど……」

 たとえば不穏な噂は兵の士気に関わるというなら分かる。しかし今回の調査対象は、領主たるマクシムが隠匿しているらしい竜の骨、あるいは竜具だ。そんなものの情報がはたして庶民の耳に届くものなのだろうか。

 怪訝な顔のクラウをヤーヒムがにやにや笑って眺め、それを横からティラナが睨んでいる。

 なおリアは串焼きの屋台に夢中になっているので今は除外する。

 「ああいう兵を注意して見てればいいのか?」

 クラウは買い物する人々に混じって歩いている警備兵にちらりと目をやった。

 城壁の砦にそれぞれ配備された警備兵は、腐れ神から街を防衛するとともに市街の治安を守る任務もある。クラウ小隊は壁外の戦闘に回されてばかりだったが、ガラティア市にももっぱら市内の警邏を行う小隊もあった。

 街の人々も巡回に慣れているのか、挨拶したり、少し避けてやり過ごしたりしている。

 視線の向こうで警備兵が顔馴染みらしい屋台の主人から林檎をもらうのが見えた。

 「賄賂……?」

 「ってほどのもんじゃないでしょう。イルセラントは腐れ神がよく出る領地ですから、街の連中にとっても砦と警備兵は重要です。あいつらに見捨てられたら終わりですからね」

 厳しい土地だからこそ兵と人々の結びつきが強くなるわけだ。

 そういうことかとクラウは一瞬、納得しかけたが、ヤーヒムは苦笑いで首を振った。

 「……む」

 自分はあまり良い生徒とは言えないようだ。

 「たとえばロード・イルセラントが工作のために動かしやすい近衛兵を使ったとしましょう。

 奴らはたいてい派手な服を着てますし、まあ地味な服に着替えるかもしれませんけど、街の人間からすれば見慣れない顔ってだけで怪しさ満点、歩き方を見れば一発です」

 マクシムがひそかに何かを謀るならば、おそらく動かしやすい側近や近衛を使う。領主であるマクシムにはむろん大勢の使用人がいるはずだが、街との関わりが深い者を使えばそれだけ不審がられる確率が上がるからだ。

 貴族はどうしても所作が一般人と違ってくるし、剣はなかなか隠しきれるものではない。

 「そんな連中が五人、六人とどこかの屋敷に出入りしてたら?」

 「それを近くの住民に見られてる、……か」

 「そういうことです。近隣の連中を立ち退かせたりしたら一目瞭然ですね。お上の兵がどこで何をしてたか、噂が回るまで一日もかかりませんや」

 「……そんなにか」

 「ま、そこまで聞き出すにはちと工夫が要りますがね」

 クラウが呻き、ヤーヒムが肩をすくめる。

 即席下町生活講座をティラナも神妙な顔で聞いていたが、どこか不機嫌そうに尋ねる。

 「彼らがそんなに領主や兵の動きに注意するのはなぜです? 他にすることがあるでしょう」

 「そりゃ決まってんだろ、お嬢様。王侯貴族がやらかすことなんて、どうせろくでもねえに決まってるからさ」

 ヤーヒム自身も貴種ではあるのだが、彼はそんな血筋などどうでもいいようだ。

 令嬢のティラナがむっとした顔をしたが、ヤーヒムは取り合わずに肩をすくめた。

 「ともかく、根気よく歩き回れば何かしら情報は出てくると思いますよ。ユーリウス殿下からもらった金はそれなりにあるんでしょ」

 「ああ」

 事前にユーリウスから活動資金としてそれなりの額は渡されている。むろん無駄遣いするわけにはいかない金だが、王族たるユーリウスには市街で平民に混じって使う金額など微々たるものであろうから、問題ないだろう。

 「ま、難しいことはこのくらいにして、ぱーっと何か食べましょうや。おーい、嬢ちゃん」

 「そなた、王妃たる妾をちゃん呼ばわりとは失礼な!?」

 「へいへい。殿下がな、何でも食わせてやるから張り切って好きなもん選んでこいとさ」

 「何と! ヤーヒムとやら、よくぞ王に諫言した。その勇気を褒めてつかわす!」

 「そりゃ、どうも」

 ヤーヒムが苦笑いで肩をすくめる。

 リアはヤーヒムをびっと指差してから、目を輝かせて一目散に屋台へと走っていった。

 「さて、俺も何か食べるもんを探してきます。朝から水しか飲んでませんからね」

 そしてヤーヒムも浮かれた様子で屋台を冷やかしに行ってしまい、クラウだけが真面目な会話の流れのまま取り残された格好になる。

 「クラウ様……あの男、買い食いがしたくて、しかつめらしく喋っていただけでは」

 「……かもな」

 ティラナの指摘にクラウはがっくりとため息をついた。

 まあ実際、屋台で寄り道するくらいはたいしたことではない。焦ったところですぐに解決するわけではないことくらいは分かるし、特に節約しなければならない状況でもない。ならばエリーシュカへの土産話をひとつ増やしてもいい。

 リアを探すと、右側の屋台のひとつを目を輝かせて覗き込んでいる。

 クラウとティラナが後ろから覗き込んでみると、ぐつぐつと大鍋に赤黒いものが煮えており、慣れない匂いが立ち上っていた。

 「おお、我がお……じゃなかった、クラウ」

 「これはどういう料理なんですか?」

 「あんた、知らないのかい? イチジクを蜂蜜やらニンニクで煮込んでるんだよ」

 大鍋をかき回していた女将が自慢げに答えてくれた。

 イチジクやニンニクはガラティア市でも普通に食べられるものだが、それらをまとめて煮込む料理というのは初めて見る。甘いのか刺激的な味がするのかすら想像がつかない。

 「へえ……」

 「イチジクもニンニクも疲労回復にいいんだよ、両方食べれば朝から晩まで疲れ知らずって寸法さね。それにワインにラベンダーに、うちの秘伝の香辛料もたっぷりさ」

 「うむ。素晴らしいであろう、クラウよ!」

 どう聞いても胡散臭さしか感じられない売り文句なのだが、リアは感心しきりである。

 「もちろん夜に食べれば朝まで元気溌剌……」

 そこでクラウはげほげほと咳き込んだ。

 「どういうことだ? 夜はベッドで眠るものではないのか?」

 「いや、リア、あのな……」

 「嫌だねえお嬢ちゃん、そんな大胆な格好してるのにすっとぼけちゃってさあ」

 クラウは涙目で助けを求めて後ろを振り返る。

 後ろに控えるティラナはさぞ怒っているかと思ったが、意外にも彼女は平静な顔だった。

 考えてみれば彼女は王城で女官を務めているのだから、下世話な噂話は聞き飽きているはずだ。いまさら、このくらいで目くじら立てるわけがない。

 「クラウ様。風紀を乱す者には罰を与えなければいけないと思うのですが、いかがですか」

 クラウの期待も虚しく、ティラナが無表情にドレスの裾の下から取り出したのは薄刃のナイフだった。女官というより暗殺者が使う仕込み武器だ。

 「待て待て待て、流血沙汰は風紀を乱すよりもっとまずい!」

 クラウが「どうどうどう」と必死にティラナをなだめる横では、彼の苦労など知らぬげにリアが女将と楽しく話し込んでいる。

 「お嬢ちゃんはそこの坊ちゃんが好きなのかい?」

 「うむ。未来の我が良人なのだ」

 「ほほおう、それはそれは! だったらちょっと早いけどこれを食べさせておやりよ。こいつを一口齧れば……あ、その服は着替えるんじゃないよ」

 そこで女将はリアに何やら耳打ちしている。

 神話においてイチジクは催淫効果があると語られている。なぜそう考えられたのかは定かではないにせよ、女将の言うとおり身体に良いことは確かだし、そこにニンニクと言った精のつく野菜も入ったなら……まあ、どういう料理なのかは明白だ。

 「よし。我が王よ、このイチジクを食べるのだ」

 「何をする気なんだ君は!」

 「妾は、王をめろめろにしてみせると言ったであろう」

 「即物的すぎる! それは順番と結果が逆じゃないか!?」

 「結果が同じならば良いではないか。よし、では子づく……」

 「あなたは往来で何を口走っているのですか、破廉恥は服だけにしなさいッ!!」

 ティラナが真っ赤な顔で叫んでリアを強引に屋台から引き剥がす。

 何事かと道ゆく人々の注目を集めてしまったが、これでもクラウが必死にナイフをしまうようにとティラナに諭した成果であった。

 いつの間にかヤーヒムも麦酒入りの素焼きのカップを手に戻ってきていて、肩を震わせながら必死に笑いをこらえている。

 「確かに、殿下とリア嬢ちゃんが子供をこさえれば貴種の家門が増えますなあ」

 貴種とは人間と竜の混血の末裔であり、竜具を使いこなす者であり、王侯貴族である。

 だがすでに竜が公式には絶滅している以上、新たな貴種の一門というのは生まれようがない。数々の特権を与えてどうにか頭数を減らさないようにしつつ、竜具で腐れ神に対抗しているというのが現在のこの世界なのだ。

 そこに色濃く竜の血を引く子供が生まれたらさぞや有り難がられることではあろうが、

 「お前も貴種だろう、俺ばっかり人を種馬みたいに……」

 「うちは名ばかりの貧乏貴族ですし跡取りのガキもいますんでね、気楽なもんですわ」

 ヤーヒムは「がははは」と笑った。なお「種馬」のあたりでティラナが卒倒しかけていたが、とっさに助けに入ったのがリアというあたりが報われない。

 リアは相変わらず腕に抱きついてくるし、ティラナの視線は痛いし、ヤーヒムは面白がるだけでまったく助けてくれないし、大通りを散策しながらクラウにとっては地獄のような時間がしばし過ぎる。

 「……あ、なんだか良い匂いがするな」

 クラウが目を留めたのは目立たない物陰にある屋台だった。

 肉の串焼きは特に珍しい品目ではない。だが他の店が香辛料の強烈な香りを漂わせているのに対してこの屋台は簡素な味付けのようで、焼けた肉そのものの匂いがする。

 屋台の位置取りが悪いのか客は多くないが、覗き込んでみると肉と野菜を取り混ぜて串に刺してあり、見た目もなかなか華やかだ。それにさきほどのように怪しげな感じもしない。

 「おお、これも美味しそうだな!」

 「だろう?……すみません、それを四本もらえますか」

 声をかけると、三、四歳の男の子が帽子を逆さまに抱えてクラウの足を小突いて来た。

 「うわっ!?」

 「坊主、お母さんの店を手伝ってるのか。よしよし、偉いぞー」

 狼狽えるクラウに、ヤーヒムが苦笑して横から男の子を抱き上げてやった。男の子が大事そうに抱えている帽子にクラウはおっかなびっくりといった仕草で小銭を投じる。

 「お客様、申し訳ありませ……」

 「いやいや、気にせんでください」

 ヤーヒムは鷹揚にわしゃわしゃと男の子の頭を撫でてから、ふたたびクラウに目をやった。

 「別に、こんなガキに取って食われるわけがないでしょうが」

 「そうなんだけど、子供の相手をしたことがないから……」

 離宮と砦にいたのでは幼児に出会う機会などほとんどないので仕方がない。せいぜい幼いエリーシュカの面倒を見たことがあるくらいか。

 きゃっきゃとヤーヒムの腕の中ではしゃぎ始めた男の子を見て、リアが小首を傾げた。

 「そなたは幼子に好かれやすいようだな?」

 「あー、昔、嫁さんに言われてさんざん息子の子守をしたからねえ」

 ヤーヒムは隊の唯一の妻帯者であり、一人息子がいることはクラウたちも知っている。

 「元の奥方、ですけどね」

 ティラナがさきほどの意趣返しとばかりに口を挟んだ。

 「……元?」

 「ええ。あの男は以前、あろうことか気に食わない軍の上官をぶん殴って降格させられたそうなのです。奥方は愛想を尽かして家を出ていかれたのでしたっけ?」

 「体裁上、貴族籍から抜いただけだ! まだ息子はあいつの家に預けてあるし!」

 ヤーヒムが慌てて叫ぶが、リアが彼を見上げる目がたちまち反抗期の娘のようになった。

 「えー……」

 「しゃあねえだろ、あのクソ隊長、まだ住民が残ってる家を見捨てて撤退しようとしたんだよ! 子供もいたのに!」

 このあたりの経緯はクラウも以前に聞いている。

 ヤーヒムは爵位持ちの上官を殴って降格となり、累が及ぶのを防ぐために書類の上では妻と離縁した。そして厄介払いのように年若い〝ガラクタ王子〟の部下にされて現在に至っているというわけだ。

 理由を聞いて、リアは「なんだ」とばかりに表情を元に戻した。

 「そういうことか。ならば、その隊長とやらが悪いな」

 「そうだろう、そうだろう? いやあ嬢ちゃんは話が早くて助かるぜ」

 リアはヤーヒムの腕の中の男の子に手を伸ばしてほっぺたを撫で回している。記憶のない彼女は幼児に触るのも初めてのはずだが、まったく怖じ気づく様子はない。

 と、そこで肉が焼きあがったと声がかかった。

 「おお、我が王よ、この串焼きも美味しいな!」

 最初に受け取ったリアが一口齧って感動に目を輝かせる。地面に降ろされた男の子が母親の後ろで「そうだろう」とばかりに自慢げな顔をしたのがちょっとおかしかった。

 「いつも、この場所に屋台を出してるんですか?」

 「いつもではないのですが……出店料が払えるときには、大抵このあたりにいます」

 情報収集してみようと、客がはけたのを見計らってクラウは母親にそれとなく尋ねる。

 壁外の村に暮らす人々は農作物や家畜を市街の商人に買い取ってもらい、あるいはこうして自ら売りに来るそうだ。肉や野菜を売るよりこうして調理した方が儲かるが、代わりに工夫が必要になるという塩梅である。

 確かに女性と男児の衣服は、道ゆく人々よりも少しみすぼらしく見えた。街と村ではどうしても生活水準にも差が出てくる。

 「なるほど」

 それはそれで興味深い話ではあったが、竜の骨の手がかりらしき言葉はなかった。まあ、最初からいきなり有用な情報を得られるわけもないのだが。

 ティラナ、ヤーヒムと順に串を手渡していき、ようやくクラウの分まで焼き上がる。

 なにしろ先刻イチジクの罠があったので、変な効能がないことを祈りつつクラウはおそるおそる肉を齧った。

 「……美味い」

 素朴な、ぶつ切りにした肉を焼いただけの料理である。食べ慣れたガラティア料理とは違ったし、王族の主流からは外れていても何度か夜会に出る機会があったので豪華な食事も知っているが、それでも素直にそう思えた。

 「うむ。人間たちの街に来たのは初めてだが、楽しいものだな!」

 あまりにリアの食べっぷりが良いものだから、女性が「もう一本召し上がります?」と言って差し出していた。後でその分の代金も払うのはクラウなのだが。

 「そうだな。……楽しいんだな、きっと」

 クラウはぽつりと呟く。

 楽しみながら食べれば美味しいのだ。いまさらのようにそんなことを知る。

 令嬢育ちのティラナは四苦八苦しながら肉にかぶりつき、ヤーヒムはまるで長年の知人のような気安さで女性とあれこれ話していた。

 そうこうするうちに食べ終わり、では別の場所に向かおうかと思ったところで、

 「ん……?」

 不意に、大通り全体がざわめいたような気がした。

 クラウとティラナが眉をひそめ、リアも首を捻りながらもクラウの腕を取ってくる。ヤーヒムは面倒そうにため息をついて手にしていた素焼きのカップを放り投げ、女性も慌てて屋台の横に立てかけた看板を引っ込めていた。

 「何だ……?」

 「ま、見てりゃわかりますよ。……嬢ちゃん、お前さんはちと殿下の腰に戻っとけ」

 「む!?」

 リアは不満げな顔をしたが、クラウが重ねて頼むと不承不承ながら大剣の姿となった。

 こういうときは場慣れした人々に合わせておくに限る。リアの姿が消えたことに女性が怪訝な顔をしたものの何とかごまかす。

 大通りの人々もほぼ似たような行動を取っている。

 買い物に来ていたらしい者は側の路地に飛び込み、屋台の主人たちは手早く広げていた商売道具を片付け、ごった返していた大通りはたちまちがらんとした空間となった。

 まるで、これから何かが来ると言わんばかりに。

 「ということは……」

 「たぶん、殿下のご想像どおりだと思いますよ」

 やがて土を踏み固めて作られた道に、馬蹄の音が高らかに鳴った。

 颯爽と馬を駆っているのは鎧を着けた騎士が数名。先日、公城に出向いたときに城門で同じ装備を見かけたから、砦ではなく公城詰めの騎士たちだろう。

 火急の事態が起こったのならば──たとえば腐れ神が城壁を突破して市街地にまで侵入してきたとか──、街中で鐘が鳴らされて大混乱になっているはずである。さきほど警備兵が普通に買い食いしているのを見かけたから、ただの騎兵が通るというだけならこんな大仰なことになるはずがない。

 「……ロード・イルセラントか」

 ガラティア市では国王が通るときは周囲の民は地に伏せるべしとされていたが、イルセラント市では道を開けて静かにするのが規則のようだ。人々は息をひそめるようにしてそれの到着を待っている。

 先触れの騎士たちが通過した後、白馬をゆっくりと走らせるマクシムの姿が見えた。

 『あの男……』

 声を上げかけたリアを、クラウは慌てて大剣の鞘を叩いて黙らせる。

 その前後にはやはり数名の騎士が従っており、その中には見知った顔……ダニシュもいた。

 彼の役目はフェイトン砦の守備隊長のはずだが、伯父について回って今日も砦はほったらかしのようである。まあ、だからこそ地図を手に入れることもできたのだが。

 「……それにしても」

 領主が己の領地を見回るのはごく普通のことであり、むしろ良いことだとクラウは思っていた。民草への細やかな気配りは領主には大切だろう。領主としてのマクシムにそう問題があるとも見えなかった。

 「──あ!」

 クラウは思わず考え込んだあまり、後ろの女性の小さな声に気づくのが遅れた。

 大人たちは「領主が道を通るときは静かにしていなければならない」という規則を知っていても、子供はそうではない。男の子も女性に抱かれて最初はおとなしくしていたが、やがて飽きたのだろう、手を振り払って飛び出してしまう。

 ちょうどマクシムの白馬の目の前に。

 「────!!」

 空気が凍りつく、とはこのことかと思った。

 通りの向こうにいる住民が息をのむのがはっきりとわかった。

 当の男の子だけが状況を理解せず、目の前に出現した大きな白馬に目を丸くしている。マクシムが寸前で手綱を引いたので馬蹄で蹴り殺されずにすんだが、逆に言えば、ここで領主に手綱を引かせてしまったこと自体が大問題だ。

 「ママ?」

 ようやく異様な雰囲気に気づいたのか男の子は母親のもとに駆けてくるなり泣き出した。

 それを抱いてあやしてやりながらも、女性は顔面蒼白を通り越して今にも気を失いそうだ。

 「ヤーヒム、……こういう場合はどうなる?」

 「まあ、あの女将が謝っただけじゃおさまりません」

 クラウは声をひそめて隣のヤーヒムに尋ねる。

 「たかが子供の不注意だろう、何で……」

 「そりゃ、貴種だからですよ。殿下」

 平然と言い切られてクラウは黙り込むしかなかった。

 領主の前に不用意に飛び出してしまうというのは重罪だ。不敬に加えて、貴種を危険に曝したことには違いないからである。あの男の子はまだほんの子供であるが、彼がマクシムを害する意思がなかったと証明することは難しい。今回とてマクシムが手綱さばきを誤って落馬していた可能性は高いのだ。

 貴種が竜具で領地を守らなければこの国は成り立たず、ゆえに貴種は崇敬される。

 裏を返せば、平民は貴種に逆らえない。貴種に見放されれば死を待つだけだからだ。

 「貴種だからって……何の被害も出てないのに」

 「偉い人は面子を守るのも大事なんですよ。殿下の方がよくご存知でしょう」

 マクシムがぎろりと地面に膝をついた母子に目をやる。

 こうした場合に民草を斬り捨てるも鷹揚に許すも領主の腹ひとつだ。そしてマクシムは〝ガラクタ王子〟への態度からしても、身分の低い者に容赦するような性格ではない。

 主君に合わせて馬を止めた騎士たちが剣を抜くのが見えた。

 『あ奴ら、いったい何をやっておる! 人間が人間を斬ろうとするなど……!』

 「せめてこの街の人間なら、町長なりが取りなしに入るんですがね……」

 そうやって実際は罰金で終わることが多いというが、今回は条件が悪すぎた。

 母子が壁外の村から行商に来たということは、このあたりに身内や知人がいないということだ。この地区の生まれなら意を決して庇ってくれる者がいたかもしれないが、居合わせた人々は音を立てずに近くの路地に逃げようとしている。

 なるほど、どんなに優れた貴種であっても、貴種であるというだけで平民からは恐れと忌避の対象なのだ。その気持ちはクラウにだって分かる。誰もが面倒ごとには関わりたくない。

 息をひそめて事態を見守るしかない人々の中で、クラウはぐっと拳を握った。

 「…………」

 そして立ち上がろうとする。

 領主といえども直系王族からの物言いを無視はできないはずだ。後でどれだけ有形無形の嫌がらせが来るかは分からないがここで幼児を見殺しにするよりマシだろう。だが、

 「やめておきなさい、殿下」

 「離せッ」

 「領民の前でそれをやったら、ロード・イルセラントの面目を潰すことになります」

 「だからって子供を見殺しにできるか! お前もそうだったんだろう!?」

 小声で言い争う。ヤーヒムは頼りになる部下だが、今だけは譲る気は一切なかった。

 「落ち着けってんですよ。ここで殿下が口を出したら余計に問題がこじれるだけです」

 「っ……!」

 苦いものを含んだ声に、クラウは思わず動きを止めた。

 目の前では騎士の命令によって、母親である女性もマクシムたちの前に引き出されている。

 「……領主閣下への御前での無礼、幼子といえど許すわけにはいかぬ!」

 領主の甥という立場ゆえか、馬上で竜具の剣を振り回しながらきんきん響く声を張り上げているのはダニシュだ。

 「──ですからね、こうするんですよ」

 そしてヤーヒムは腰の皮袋に手をやった。

 素早く金属の飛礫を抜き出して手首の力だけで投じる。

 「閣下のご威光にひれ伏さぬ者はこのイルセラうわぁッ!?」

 突如、ダニシュの馬が激しく跳ねた。

 立て続けに二投、三投、ヤーヒムが投げた飛礫は狙いどおりに馬の横腹に命中した。ただし馬に傷を負わせることなくただ驚かせる程度のものであり、騎手が落ち着いて強く手綱を引けば、すぐに立て直すことができただろう。

 残念ながら、ダニシュはその熟練した騎手とは程遠かったのだが。

 「こら、落ち着けっ……」

 ダニシュが慌てるせいで馬もますます混乱して跳ね回っている。

 一度、マクシムの白馬に横から体当たりしかけたくらいだ。慌てて同僚の騎士が主君をかばいながらいっせいに離れ、呆然としていた女性ですら巻き込まれまいと慌てて男の子を抱えて距離を取っていた。

 そこにヤーヒムが駄目押しとばかりに、馬の尻にもう一撃を食らわせる。

 「ちょっ、待……」

 「ダニシュ!」

 「うわああああぁあああああぁぁぁぁぁあああぁぁぁあ」

 後ろから敵が来ると思った馬は、今度こそ泡を食ったように全速力で走り出した。ダニシュの悲鳴がしばらく尾を引いていたが、それもすぐに聞こえなくなる。どうやら落馬はしていないようで何よりだ。

 後には呆気にとられた街の人々と、苦虫を噛み潰した顔のマクシムたちが残される。

 『うわあお』

 腰からリアの小さめの歓声が聞こえて、クラウは思わず頭痛を覚えた。

 母子が領主に処断されそうになるという緊迫した局面は変わらないはずだが、今となってはそれすら間が抜けて感じられる。クラウですらそう思うのだから、誇り高いマクシムにとってはなおさらだろう。

 「ちっ、あの我が一門の恥曝しが……!」

 吐き捨ててからマクシムは白馬に強く鞭を入れた。

 馬も何だかはっとしたような顔で一気に駆け出し、それを他の騎士たちが追いかけていく。

 「何とかなった……のか?」

 領主や騎士たちがいなくなってがらんとした大通りで、女性だけが己が子を抱きしめて呆然と座り込んでいる。固唾を呑んで事態を見守っていた市民は、なおもしばし強張った顔をしていたが、やがてのろのろと動き出した。

 ようやく、さきほどまでの賑やかな街の風景が戻ってくる。

 「どうです、殿下。我がグランジ家の秘伝の飛礫術は」

 したり顔で笑うヤーヒムをクラウは瞠目して見上げた。

 「すごいな!……いや頼りになるのは前から知ってたけど、あんな技は初めて見た!」

 「いやあガキの頃にお役人を脅かすのが楽しくて練習したんですが、役に立つもんですな」

 わはははと笑うヤーヒムに、クラウは数秒前の感動も忘れてがっくりと項垂れる。

 「秘伝とはよく言ったものですね。人に自慢できたものではないというだけではないですか」

 ティラナがげんなりした顔で呟きつつ、ドレスの裾の埃を払っていた。

 「リア、もう鞘から出ていいぞ」

 クラウが軽く腰を叩くと、彼女は言われたとおりにするりと抜け出して少女の姿へと戻る。

 しかし彼女はクラウの腕に抱きつくことなく、しばしぼんやり遠くを見つめていた。

 「……リア?」

 「グラン?」

 唐突に聞こえた単語にクラウは目を瞬かせた。人名のようだが、小隊の部下にも知人にもその名の持ち主はいない。

 「そうだ、グランだ。あのすばしっこい赤い竜」

 「……?」

 「思い出した。前に似たようなことがあったのだ。原因は忘れたが……まあたいしたことではなかった気がする、大勢集まって一触即発となったところで、あのはしっこいグランが器用に尻尾で小石を投げつけ始めた」

 ひたすらリアが呟き続けるのをクラウたちは唖然と聞くしかない。

 「石が当たった奴は暴れたが、それでなんだか馬鹿らしくなって解散になった。あれをたいしたものだと言う長老もいたし、ただの卑怯者と言った同胞もいたが」

 確かにその流れはさきほどのヤーヒムの小細工と似ている。

 そこでクラウははたと気づいた。

 「あのさ、リア。……尻尾、っていうことはそれは竜たちの話なんだな?」

 「それはもちろ……あ」

 そこでリアは目をぱちくりとさせた。

 どうやら自分の〝思い出した〟ものが何なのか、ようやくわかったようである。

 「記憶が戻ったんだな!? 竜が生きていた時代ってことは相当に前なんだろう、なら……」

 「落ち着いてください、クラウ様。いきなりあれこれ尋ねるのは酷です」

 ティラナがやんわりクラウをリアから引き離し、ヤーヒムが顎をしゃくりながら尋ねる。

 「大丈夫か、嬢ちゃん。何ならそこで温かいもんでも飲むか……」

 だがリアはヤーヒムの心遣いに頷くのではなくその顔を見つめてますます目を丸くした。

 「……グラン?」

 「惜しい、俺の名前はヤーヒム・グランジだ。家名も一緒に覚えてくれると……」

 「違う、そなたではない。そこの短剣!」

 もどかしいとばかりにリアはヤーヒムの上着を脱がせて短剣を抜き取ろうとする。大衆の面前で若い娘に剥かれるのはさすがに勘弁願いたかったのか、ヤーヒムは「ちょ、ちょい待ちっ」と狼狽えながら短剣を取り出して彼女に渡した。

 リアは短剣をじっと見つめている。グランジ家に伝わる、灼熱色に輝いて熱を発する剣。

 さきほど彼女はグランは「赤い竜だった」と言った。赤は火竜の色彩だ。

 「まさか……」

 グランというその竜がヤーヒムの祖先だということか。

 貴種とは竜と人間の混血、すなわち竜を始祖とする一族のことだから、筋は通っている。

 「つまり──あなたは始祖からして悪知恵ばかりが働く小物だったということですね」

 「うるせえよ!!」

 ティラナに身も蓋もなく言い切られて、ヤーヒムは思わず全力で喚き散らしていた。

 そのやりとりをクラウは呆然として見つめる。竜具とは竜の骨、すなわちかつて生きた竜の遺骸から作られていると知識としては知っていたが、その〝歴史〟を目の当たりにしたような気分である。

 そして実感した。リアはまぎれもなく竜──はるか昔の種族の生き残りなのだ。

 「それでリア、他に何か思い出せた感じはあるか? 自分がどういう竜とか……」

 「……分からん。グランの顔は思い出せるが、あの場に他に誰がいたのかはさっぱりだ。もう少し考えれば出てくるかもしれないが……」

 「いや、無理はしないでくれ。悪かった」

 リアは愛らしい顔を混乱に歪めて今にも泣きそうな顔をしている。クラウは思わずその小さな身体を抱き寄せて、金色の頭をくしゃくしゃと撫でてやった。

 おそらく彼女はまだきちんと記憶を取り戻せたわけではないのだろう。

 ただ偶然、昔と似たような出来事に出くわしたものだから、記憶の欠片をひとつ拾い上げることができただけで。

 リアはクラウの腕の中でなおも古びた短剣をじっと見つめている。

 「懐かしいな。なんだか、まだグランの魂がこの骨に残っているようだ」

 「そうか……」

 「うむ。『おお子孫よ、言い負かされるとは情けない』と言っているような気がする」

 それはリアの幻覚なのか、本当に骨にまだ魂が宿っているのかどうかは分からないが。

 「……そうかい」

 ティラナが吹き出し、遠い遠い先祖にダメ出しされたヤーヒムが思わず遠い目をした。