ガラクタ王子と覇竜の玉座(1)

  

  

  

 いわく、かつて竜と人間は結託して神を殺してしまったのだという。

 神がいない世界で人間はなおも生きている。

  

  

  

第一章 ガラクタ王子と覇竜の玉座

 廊下を駆け行く足音に、クラウ・タラニスは跳ね起きた。

 小隊の仲間と交代で仮眠を取っている最中だったから、革鎧の紐を緩めただけで戦闘装備はそのまま身につけている。クラウは素早く紐を数カ所締め直し、腰には長剣、そして弓と矢筒をひっ掴むなり階段を駆け下りた。

 外に出ると冷たい夜風が頬を叩き、糸のような月と黒色を塗り込めた空が視界に広がる。

 「ヤーヒム、どこに出た!?」

 「ああ、殿下」

 声を張り上げると、篝火を手に何やら叫んでいた男がこちらを振り返る。

 風音で声が掻き消されそうで、クラウは急いでヤーヒムの近くまで駆け寄った。

 「あそこです。ほら、ボロい倉庫があるでしょう」

 ヤーヒムが篝火を指示棒代わりに使って説明すると、クラウは眉根を寄せて眼下を眺めた。

 この国のほとんどの都市では、市街地は高さ数メルトルの城壁でぐるりと囲まれている。

 今クラウたちがいるのもそんな城壁の一角に防衛拠点として造られた砦のひとつだ。

 壁の内側に居並ぶ家々がみな灯りを落として眠りにつく中、壁の上だけが慌ただしい。

 「……もう、かなり増えてるな」

 月明かりにもろくに頼れない暗い夜であるが、城壁から差し掛けられる篝火のおかげで外側の様子はいくらか見て取れる。クラウたちと同じ警備隊の兵と、──暗闇にうぞうぞと動き回る〝何か〟。

 「最近、妙に襲撃が多いな……」

 「連中も、王様が寝込んでる隙にガンガン攻めとけってことじゃないですか」

 不遜な軽口を叩いたヤーヒムは、クラウにぎろりと睨まれて肩をすくめた。

 そして、二人が話している間に他の仲間たちも集まってきた。四十路のヤーヒムを筆頭に二十歳前後の青年が八人ほど。

 彼らがクラウ率いる警備小隊の部下である。

 「出るぞ」

 隊長らしく短く一声かけてから、クラウは城壁の外階段を一気に駆け降りた。

 壁外に出るなり、ふたたび夜風が激しく吹き付けて黒髪を散らした。もっとも、いつも自分でざんばらに切っているだけの髪なのでいまさら気にはしないが。

 城壁の外側には雑草や低木がぽつぽつ生えるだけの荒野が広がっている。

 そして、さきほど城壁の上から確認したとおりに倉庫のあたりから怒号が聞こえてくる。他の警備小隊が先に殲滅に取り掛かっているようだ。壁外での戦闘ならば一般市民を巻き込む危険はないので、そこは気楽である。

 「守備隊長殿の指示は……ないな」

 クラウはちらりと城壁の塔を見上げて嘆息した。

 戦闘時には上官からの命令に従うのが鉄則であるが、塔の最上階は沈黙したままだ。もしかしたらこの騒ぎにも気付かず熟睡しているのかもしれない。こんな襲撃はよくあるから、毎度大騒ぎしていられないというのが本音だろう。

 だがクラウたち下っ端の兵士は毎度のことだと無視するわけにはいかない。

 暗闇の向こうからは今日も金属を叩きつけるような音、隊長の指示、悲鳴が聞こえてくる。

 地面に落ちた篝火に浮かび上がるそれを見据えて、クラウは呟いた。

 「腐れ神……」

 昔、人間は竜と一緒に神を殺したのだという。

 なぜ先祖が神殺しという大罪を犯したのか、神話には語られていない。確かなのは、以降、この世界には死に際の神の呪い──〝腐れ神〟と呼ばれる化け物が発生し、人間は今なおその脅威に曝されながら生きているということだ。

 「それじゃ、殿下。俺たちもいつもどおりに」

 「ああ、頼む」

 とはいえ神の呪いだろうが何だろうが、戦いも続けばそれが日常になってしまう。

 クラウも頷いて手にした弓を握り直した。

 腐れ神は人間の集落を襲うという性質こそ共通しているが、その特徴は毎回異なる。今回は大型犬から馬ほどの大きさの個体が十数体。

 「うえぇ、今回は〝虫〟かよ……」

 部下が心底嫌そうに呻いていた。

 神の呪いに〝形〟などないということか、腐れ神は本来は粘液状の不定形である。だが彼らは進路上の虫だの小動物だのを取り込んで形状をそっくりそのまま真似するという性質があった。学者によれば、形質の〝情報〟を食らっているのだとか。

 今クラウたちの前にいる奴らは虫が気に入ったらしく、もっとも大きな二メルトルほどの個体はカマキリ、随伴する一メルトル前後の個体はアリを模している。

 正直、直視したくない。目を凝らしても暗闇で細部まで見えづらいのがむしろ幸いか。

 「ただ、これは近づくにも一苦労だな」

 脚を景気よく振り回す虫どもに、他の隊も近づきあぐねているようだ。

 「……さて、ちゃんと俺に気付いてくれよ」

 クラウは呟いて、目を細めて矢を番える。

 近距離から放った矢は、一射目は外骨格に弾かれた。硬い生き物を真似されてしまうと、こうして攻撃が通じづらくなるので難儀する。

 二射目はうまく突き刺さった──が、頭部の一部が泡のようにぼこりと膨れ上がり、矢は押し出されてぽとりと地面に落ちてしまった。頭はすぐに元のカマキリの形状に戻り、おそらく矢傷などまったく残っていないだろう。

 生半可な……普通の武器では〝神の呪い〟たる化け物には傷ひとつ付けられない。攻撃できないわけではないのだが、こうして即座に形状回復されて終わりだ。

 だがクラウは表情を変えなかった。

 それでいい。射殺すつもりで矢を射たわけではないのだ。

 傷を負わずとも苛立ちはしたらしく、カマキリは巨大な目をぎょろりと動かした。数百、数千の複眼がまったく同時にクラウを映し、

 「────!!」

 突如、何かに気付いたように振り上げた両前脚を激しくこすり合わせた。

 「……っ!」

 二メルトル近い巨体から発せられた物音に、間近で聞いてしまったクラウは反射的に顔をしかめる。散開していたヤーヒムたち、ついでに近くにいた他の隊の兵までもがいっせいに顔を強張らせていた。

 そして最大個体が発した檄に周囲のアリたちの動きもまた大きく変わる。

 「よし、こっちを見た!」

 巨大な虫どもの視線を浴びながらもクラウは気丈に叫んだ。

 腐れ神は人間を襲う──それは確かだが、その中でも優先順位がある。

 そしてクラウは腐れ神にとってはもっとも憎いであろう類の人間なのだった。

 カマキリ、そして数体のアリはいっせいにクラウに狙いを定めて、八本の脚を目にも留まらぬ速さで動かして迫り来る。クラウはもう何射か足元に打ち込んで動きを牽制してから、背を向けて全力で走り出した。

 腐れ神の攻撃方法は単純で、模した生物と同じ動きで人間を襲ってくるだけである。たとえば狼や熊であれば鋭い牙で人間の肉を食いちぎろうとするし、虫であれば前足や鎌を振りかざして迫ってくる。

 問題はもっぱらその大きさだ。

 たとえアリであっても二メルトル近い大型となればそれだけで十分な脅威である。なにより相手は人間への殺意に満ち溢れているのだ。

 「くっ……」

 虫だけあって脚が速い。ぺしゃんこにされるのは御免被りたい。

 「殿下ッ!!」

 「任せた!」

 間一髪、クラウに迫る虫たちをヤーヒムや部下たちが武器を構えて取り囲んだ。

 複眼と広い視野を持つ虫といえど、クラウに気を取られ、また暗がりでは人間たちの動きをすべて捕捉しきれなかったようだ。

 「ずえりゃぁあッ」

 ヤーヒムが短剣を腰だめに構えてアリの一体に横から体当たりする。

 実戦用の地味な拵えの短剣だが、刀身は鋼ではなく白い骨を削りだして作られたものだ。

 白くざらついた刀身は黒い脇腹に食い込む瞬間、ヤーヒムの気合いと魔力を受けてあかあかと炎の色に輝いた。

 クラウの矢は弾いた外骨格だが、光る刃、そして巨漢の体重をそのまま乗せた一撃には耐えられなかった。短剣は柄まで深々と突き刺さり、そしてすぐさまヤーヒムが刃を引き抜いて跳ね起きてもその動きに追随することはない。

 「まずは一匹、やりましたぜ……っと」

 「一撃だな、さすが」

 カマキリの動きを牽制しながらクラウが快哉を上げた。

 昆虫を象った身体がまるで泥が乾くかのように崩れて散っていく。ヤーヒムもその残骸を踏み潰して、短剣を構えて次の一体に向かっていく。

 同様の手順でもう二体ほど屠り、

 「残りはこいつ……だ……!?」

 「うわあああっ」

 後は巨大カマキリを残すだけ……となったところで、若い部下が悲鳴を上げた。

 この小隊で腐れ神に有効な武器を持っているのはヤーヒムだけなので、他の隊員は基本的にはクラウと同じ牽制役である。彼らはクラウと同様に弓、あるいは鉄剣でカマキリを追い込んでいたが、若い一人がその動きを追い損ねたようだ。

 ヤーヒムはまだ距離がある。たとえ短剣を投げたところで動きを止めるには至らない。

 「ちっ……!」

 考えるより先にクラウはふたたび矢を抜き出していた。

 矢は狙いどおりにカマキリの脚に突き刺さる。

 ただの矢では腐れ神を殺せない。だがつっかえ棒のように関節部に矢が突き刺さったせいで、カマキリはがくりと体勢を崩した。すぐさま矢を体内から排除して形状回復したいはずだが、細い脚に刺さったとあってそれにも時間がかかっているようだ。

 そして、それはヤーヒムが追いつくのには十分な時間だった。

 「死ね、このクソ神野郎がッ!」

 吠えてヤーヒムが繰り出した刃は赤から橙へと熱と輝きを増し、ナイフでバターを切り分けるかのように、巨大なカマキリをやすやすと斬り裂いた。

 腹に大きく切れ込みを入れた後、ヤーヒムは長大な脚にも刃を入れて切り刻まんとする。

 「ヤーヒム、もういい!」

 クラウが声を張り上げると、ようやくヤーヒムは短剣を握る手を下ろしたのだった。

 小隊一同の目の前でカマキリもまた泥の姿に戻り、やがてそれも乾いてぼろぼろと砕けていく。ひときわ冷たい夜風が吹き付け、その残骸をまとめて吹き飛ばした。

 同時にヤーヒムの手の中で赤光が消え、元の白い刀身へと冷えていく。

 「いやあ、今回は少し肝が冷えましたぜ、殿下」

 「俺はお前を見ている方がよっぽど肝が冷えたよ」

 肩をすくめて振り返るヤーヒムに、クラウも苦笑した。

 そこで、そこかしこから歓声が聞こえてきた。どうやら他の隊もそれぞれ腐れ神を討伐し終えたようである。一番大きなカマキリはクラウ小隊が倒したから、さほど被害は出ていないだろう。

 「それにしても、隊にこいつ一本じゃあつくづく心もとないですなあ」

 短剣を鞘に収めながら、ヤーヒムがぼやいた。

 「せめて殿下も竜具を使えりゃ、もうちょっと俺たちも楽なんですがねえ……」

 〝竜具〟とは文字どおり、竜の骨を加工して作られた道具のことである。

 かつて人間は竜と結んで神を殺した。ゆえに現在でも腐れ神を倒す唯一の手段は遺された竜の骨で攻撃することである。ただし竜という種族が滅びてしまった現在では遺骸……遺骨を用いた武器や道具はきわめて貴重であり、また誰でも使えるわけではない。

 竜の力を引き出せるのは竜と人間の混血の末裔──貴種、すなわち王侯貴族。

 こう見えてヤーヒムは貴族の家柄である。もっとも称号なし、年金なしの最下層なので、こうして警備隊に勤めて日銭を稼いでいるわけだが。

 「じゃあ、俺にその剣を貸してみるか?」

 「勘弁してくださいよ。こんなボロい剣でもいちおう家宝なんで、壊されたんじゃ先祖に申し訳が立たねえ」

 上官に対してあまりな台詞だが、気心の知れた部下とのこんなやり取りはいつものことだ。

 「まぁ王様の血がこれっぽっちも役に立っちゃいませんわな、殿下は」

 「良いことは特にないな。面倒だし。要るならいつでもやるから言ってくれ」

 クラウが肩をすくめて言うと、ヤーヒムや部下たちがいっせいにげらげらと笑った。

 クラウの父親はこのガラティア王国の国王だ。

 すなわち貴種の中の貴種、王国の第三王子である。

 だが竜具を使いこなせない。……いや、使いこなせないだけならまだマシだ。

 クラウは竜具に触れただけで壊してしまう、いわば〝竜具殺し〟とでも言うべき難儀な体質なのだった。腐れ神に竜具でしか対抗できない現在、貴重な竜具を破壊するだけの王子は穀潰しどころかただの歩く傍迷惑である。

 母親が貴族ですらない下働きの平民の娘だったこと、またその竜具との相性の悪さ(?)のせいで直系王族とはいえ城で悠々自適に暮らすことはできず、こうして砦で日々化け物退治に勤しむ身の上となっているのだった。

 ともあれクラウも残りの矢を矢筒に戻してから、部下たちを見渡して声をかけた。

 「全員、怪我はないな? じゃあ上に戻……」

 号令は途中で中断された。

 他の隊がわっと騒ぐ声がして、赤光が視界の端から射し込んでくる。

 「今度は何だぁ!?」

 「……倉庫だ」

 小隊はいっせいに振り返って愕然とした。

 市街地をぐるりと囲う城壁は一部が腐れ神の防衛拠点の砦になっており、また別の箇所には倉庫なども併設されている。おそらく戦闘のどさくさで篝火が倉庫にまで飛び火していたのが、今になって一気に火勢が強まったのだろう。

 「あの倉庫、何がしまってあったかな」

 「中もうボロボロですよあそこ。武器はなくて、櫓を組むときの木材を見た気がします」

 哨戒のため城壁の上に残っていた隊も火事に気づいたようで騒いでいる。壁外のこの辺りには井戸がないので、彼らには悪いが現在クラウ隊が特に手伝えることはない。

 「けど、燃えるものが多いとなると……」

 顔をしかめたところで、クラウはきつく額に皺を寄せた。

 「殿下?」

 「……もう一体いる」

 「はぁ!?」

 轟々と唸りを上げつつある炎に紛れて、一瞬、一抱えほどもありそうな蛾が見えた。カマキリだのアリだの地を這う虫だけだと思っていたが、羽虫を象った腐れ神もいたのだ。

 そして、そいつは警備隊から逃れて身を潜めていた。

 「あのまま放っておけば、時間切れでまた数が増える!」

 「ちょっと殿下……ああもうテメェらもう一仕事だ!」

 クラウは矢を抜きながら駆け出し、それを慌ててヤーヒムたちが追いかけてくる。

 火事だと騒いでいる兵たちの側まで駆け寄ると、彼らはぎょっとした顔で道を開けた。

 腐れ神は人間すべてを呪っているが、かつて己を殺した竜のことは特に恨んでいるようで、〝竜〟の要素を持つものを優先的に襲う傾向がある。竜具と貴種、その中でも貴種の中の貴種とでも言うべき王族は狙われやすい。

 竜具殺しのクラウであっても、残念ながらその点だけは変わらない。

 だからこそ小隊ではいつも囮役を引き受けているわけだが、

 「別に、好きで引き寄せているわけでも……っと!」

 そこで、炎の向こうに隠れていた巨大な蛾も王族に気づいたようだ。

 極彩色の羽に鱗粉と火の粉を同時にまとわせながら、羽音を立てて一気に迫ってくる。あの巨体の体当たりをまともに食らったら、燃えるか叩き潰されるかの二択である。

 「このっ……」

 矢の狙いを定める暇はない。クラウはとっさに長剣を抜いて急降下の一撃を受ける。

 かろうじて体当たりを弾き返したものの、一撃で両腕の感覚がなくなってしまった。

 「うわっ……」

 「一度後退しろ、俺たちまで巻き添えになるぞ!」

 兵たちの声を聞きながら、二撃目、三撃目、クラウは上空で急旋回して迫ってくる蛾を必死で躱した。空を飛ぶとはいえ一直線に突っ込んでくるだけなので、軌道を予測して避けることはそこまで難しくはないが、しかし、

 「ヤーヒムたちは何やってる……!」

 「──殿下あああ!」

 信頼する部下の声はやけに遠くから聞こえた。

 慌てて振り返れば目と鼻の先には炎の壁があり、その向こうに部下たちの気配がある。

 「え……?」

 気が付けば、今クラウがいるのは古びた倉庫の中だった。

 巨大な蛾は無軌道に襲ってきているだけだと思ったのだが、偶然か、はたまた知能が高い個体だったのか、クラウは燃え盛る倉庫の中に追い込まれていた。急いで脱出しようと倉庫の入口に目をやるも、そちらには蛾が制止している。

 クラウは腐れ神への直接的な攻撃手段を持たない。そして部下の援護も望めない。

 「くそっ……!」

 血の気が引く、とはこのことだと思った。

 ここまで火が回っては部下が突破してくるのも時間がかかるだろう。蛾からすればこのまま適当に妨害しているだけでクラウはそのうち焼け死ぬのだが、どうやら憎い直系王族を相手にそれでは飽き足らないようだ。

 「しつ、こいっ……」

 何度となく繰り出される体当たりの一撃を避け、あるいは剣で弾きながらも、クラウはどんどん燃え盛る倉庫の奥に追い込まれていく。

 そもそも城壁の一部をくり抜く形で作られた倉庫であるから、中はそう広くない。

 階段を下り、鍵が壊れた扉を蹴飛ばし、クラウはほどなく最奥らしき部屋に辿り着いた。

 「はあ、はあ……」

 地下のこの部屋までまだ火は回っていないが、熱さはもはや耐え難いほどだ。腐れ神に潰されるより先に蒸されて死ぬ気がする。

 「……いかにも〝ガラクタ王子〟らしい死に様だって言われそうだな」

 呟いてからクラウは自虐めいた笑みを浮かべた。

 ガラクタというのはいつの間にか定着していたクラウの蔑称だ。竜具を壊してガラクタにしてしまう王子、母親の身分が低く政治的に無価値な王子、うまいこと言ったものだとクラウ自身も思ったくらいである。

 クラウは汗を拭いながら部屋を見回す。木材用の倉庫という話だったが、地下のこの部屋にそうしたものは見当たらない。

 だが、代わりに妙なものが部屋の奥に安置されていた。

 蛾が纏う火の粉に照らされて、やがてクラウの目にも見えるようになる。

 「……蚕?」

 そう形容するのが一番近いだろうか。

 地下室の壁や床には白い糸が張り巡らされ、その中に繭が浮いている。繭の大きさはクラウが両手を広げた以上、ちょっとした棺ほどもありそうだ。

 「まさかもう一匹!?」

 蛾に追われているクラウは絶望的な気持ちになったが、すぐにそうではないと気づいた。

 四方に張り巡らされた糸には汚れひとつなかったが、糸が張り付いた壁や床には分厚く土埃が堆積している。ここ数年……いや数十年近くこの部屋は無人のままだったはずだ。むろん腐れ神も侵入していない。

 繭に近づいてみると表面は極上の絹糸の輝きで、触れればさぞや手触りが良さそうだ。

 そしてその繭に包まれて、絹の寝心地を堪能している者がいた。

 「……女の子?」

 そう、見えた。

 繭に包まれているせいで顔立ちははっきりしない。ただ波打つ金色の髪と女らしい体つき、白い肢体を薄布が覆っていることだけは見て取れる。

 しかし使われていない倉庫の奥で繭に包まれて眠っているとはどういうことか。

 「……っぐ!」

 追って蛾が突っ込んでくるのをクラウは避けようとしたが、しかし自分のすぐ後ろには繭がある。クラウは踏みとどまって刀身を両手のひらで支え、どうにか蛾の体当たりを弾き返したが、巨体の一撃を真正面から受けたせいで一瞬息が詰まった。

 「げほっ……」

 クラウは何度か咳き込む。

 蛾もクラウを仕留めきれないせいか、苛立たしげに羽をばたつかせながら旋回する。

 ──と、そこで鱗粉と火の粉を纏わせた巨体が不意に揺らいだ。

 地下室に渦巻く熱気で視界が歪んだようにも見えたが、そうではない。巨体がどろりと溶けて昆虫からただの茶褐色の肉塊へと変化し、やがて真ん中から千切れてぼとりと床に落ちた。

 天井と床に二等分された肉塊はぼこぼこと泡立ってふたたび形を変える。

 ほどなく──時間にすればほんの数十秒ほどの出来事だったろう、クラウの目の前に現れたのは、まったく同じ姿かたちをした二匹の巨大な蛾であった。

 驚きはない。ただ、クラウはこの現象をこそ恐れていた。

 「……時間切れか」

 素体が粘液状の化け物であるためか腐れ神は分裂して増えるのだ。一定時間ごとに分身を生み出して倍々と増えていくから、腐れ神を発見したなら確実に最速で倒すのが鉄則だ。

 地上でカマキリとの戦闘に時間を食い過ぎたのだ。クラウはぎりっと唇を噛んだ。

 一体ならまだしも一人で二体を相手にするのはどだい無理な相談である。しかもクラウは敵を傷つける手段すら持たないのだ。

 「……死んだかな、これは」

 どのみち厄介者の〝ガラクタ王子〟だ。死んでもたいして問題にはなるまい。

 どこか他人事のように呟いたところで、しかし不意に昔のことが思い出された。

 『誰かを守れる、素敵な男の子になってね』

 病床の母の言葉だ。

 クラウの母は王城で下働きをしていたところを国王のお手つきになった女性だった。だが国王に寵愛された期間はごく短く、息子と娘がそれぞれ問題を抱えていたこともあって、気苦労を重ねて若くして亡くなった。

 最期にクラウにこう言い残した母は、おそらく病弱な妹をクラウに託したかったのだろう。

 けれどもその言葉はクラウの耳に残り、行動の指針となった。小隊で危険な囮役をずっと務めているのも、自分が身を曝すことで隊の皆が無事なら……警備隊や街への被害を減らせるならと思えばこそだ。

 そして今、目の前で少女が危険に曝されている。

 「……なら」

 この少女が誰でいかなる事情があるのかは今はどうでもいい。彼女だけでも逃がさなくてはならない。ただでさえ炎に巻かれかけている倉庫であり、目の前には人間の天敵たる化け物がいるのだから。

 「俺よりこの子を優先するってことは……たぶん、ないはずだ」

 王族がいる以上、腐れ神が少女を攻撃対象とすることはないはずだ。自分はもはや助からないだろうが、今すぐであれば少女だけでも倉庫から出してやれるだろう。

 クラウは片手で剣を振りかぶりながら糸を切りやすいよう繭を左手で押さえると、

 「え?」

 ──ぴしりと繭にヒビが入る音がした。

 剣で繭を切り裂くより先に、手を触れただけでぼろぼろと糸が崩れて消えていく。

 この現象をクラウは昔に見たことがある。家臣たちに渡された竜具に触るなり割ってしまい、陰で〝ガラクタ王子〟呼ばわりされるようになった頃だ。

 「この繭……もしかして、竜具なのか」

 しかし、そうであるならば。

 竜具の繭に包まれて眠っているこの少女は何者だ?